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痛み傷つき複雑になった世に出てもなお、私は神を信じられるか

「痛み傷つき複雑になった世に出てもなお、私は神を信じられるか」

久し振りに、以前リンクをはらせて頂いていたブロガーさんのところへ
失礼にもお邪魔させてもらいました。
私が当時拾ってきて飼育していたネコの去勢手術について
少し意見を下さった方のブログです。
経済状況が逼迫していたタメ、追い込まれた気持ちになり、
苦しく恐ろしくなってリンクを切りましたが、今はまた別の気持ちで。

さて、

私の得意分野は、どちらかと言えばメンタルヘルス系です。
自分自身のプロフィールにも掲載させていただいている通り、
依存症について、母子家庭についてが得意分野でしょう。

そして、キリスト教について少々、と言ったところでしょうか。
私自身の信仰心は正直「少々」ではありません。が、
偏りがあるのは承知しているつもりです。ですので、今回は「少々」と表現しておきます。

私は、自分自身の人生が、もはや自分自身のモノでは無い事を
時折「雷に打たれたがごとく」感じます。そして、今何をすべきか、
何を目標にし、どんな行動を取っていく必要があるのか、はっきり感じる時があります。
そしてそれが、私の願いのようであり、実は神様の願いである事も知っています。

「痛み傷つき複雑になった世に出てもなお、私は神を信じられるか」

今回の投稿のテーマです。

教会は素晴らしい場所です。そして、教会での人間関係は、
他の社会生活では味わえない絆を生み、またそこでの活動も然りです。

しかし、本当に痛み、救いを求めているのは、真理を探し損ね落胆しているのは
「世の中」です。
時間に追われ、責務に負われ、ルーチン化された日々の中で更にプレッシャーがかけられる。
確かに、その生活を捨ててしまえば、その一個人はスローライフを選択し、
心の平和を取り戻す、なんて物語がよくありますが、


それは本来、本当に欲しい答えなのでしょうか。
それは、神様が世の中に具現したいものなのでしょうか。
いえいえ、その方々を否定したりする気持ちは全くありません。
私が疑問を感じているのは、都会の空の下に居ると、大企業に居ると、
すさんだ国家に居ると、平和も味わう権利が無く、真理も泥まみれでわかりにくくなり
得る資格さえ無くなると言うのか、と言う事なのです。
それが答えなのか、と。

続き
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by eremiya2002 | 2010-02-27 10:42 | クリスチャンとしての私