○●はじめに●○
*私は今夜、アルコホーリクス・アノニマス(通称AA)の問題点と思うことについて述べます。
この団体は、
アルコール依存症の人間が酒をやめていくために必要な
知恵と経験をふんだんに持っています。
それは私が知る限りアマチュアの団体でありながら、
セミプロのような力を持ち、医学会からも賞賛と信頼を長くを得ている程です。
ですから、今夜私が述べる事は、問題点に絞られていると言うことを
予め理解していただきたいと思います。クリスチャンの方々、わかりにくいかも知れませんが、万が一気づいた事があれば、意見宜しくお願いしたいと思います*
アルコホーリクス・アノニマスや、その他の自助グループに通えば、
必ずと言っていいほどこの”謙虚” ”謙遜” と言う言葉を耳にします。
とにかくミーティングの中で幾たびも飛び交う言葉でしょう。
辞書等で意味を調べるのも勿論いいと思うし、
何より自由に論じ合い捜し求めていくこと、とてもよいと思っています。
何せ、私の場合はアルコール依存ですが
この依存症と呼ばれる症状を持つ人間には、到底無縁だった事なのですから、
こういう事に触れていく事そのものが、成長と回復なんです。
ただ、私がいつも危惧するのは、自助グループ特有の
「個人の意見である」とか
「成長の段階だから」とか
「完璧にはなれないから」とか
「人それぞれだから」
類の決まり文句を盾に、いくらか良い状態になったメンバーが
(自助グループでは”先行く仲間”とか”スポンサー”とか言います)
持論の「謙虚・謙遜・傲慢・高慢」を語り逃げしているのが
とてもよろしくないな・・と感じているんですね。
感じているというか、そういう事に非常に大変な思いをしてきた経緯があるため
真実を掴んだ今は、とにかく大きな問題だなと深く思い、頭を悩ませています。
どうしたらいいのか。
今は私は現場を離れ、数人の私を信頼していてくれるメンバーに
神様の本来の厳しい教えと、想像を絶する愛の大きさと、
何よりもそこからくる真の平安をかげながら伝えるという地道な作業に没頭しています。
大胆に言えば反発を煽るだけ、それこそ、熱く語れば、”傲慢”と位置づけられる。
勿論、当人達はそう直接言葉では言わない。
でも、明らかにハッキリ言う人間、熱く語る人間を何らかの部類に分別し
自分が平安で居る為に、人を除外するコミュニケーションスキルを利用します。
(そういう率直な意見を言うと、今度はこちらの被害妄想とか言われちゃったり
とにかくまともなキャッチボールを避ける技ばかり磨きをかけます;汗)
”私達アルコホーリクがお酒から離れている為に必要なのは平安である”と言うセリフを盾に。
当人達は言葉には出さないけれども、その言葉の端はしに心の言葉が映し出されています。
「私の分類は、どちらかといえば謙遜だと思います。そして、今浸透している方法もふつつかならがらも謙遜に分類されると感じています。でも、あなたは分類されないのでは?」と。
”こっちはアンタがイヤだからさける”、といえる人間のほうがまだずっと謙虚だと思いますね、トホホ。
自分を罪人と位置しないところから、逆にその人間の傲慢さを感じざるを得ないですよね。
そしてそういう、見せ掛けの謙遜には暫くの間、とても影響力があります。
数年・・10年、20年縛られたりする事も多くあります。そして人数も集まるので
当人たちも、集まりの多くのメンバーも
”人数がいるからおおよそ間違いない”と思うのです。
これは神の意思に間違いない、と。
でも、その認識は未熟で何の裏づけもなく
人から伝わったものを鵜呑みにしている事が結構あるにも関わらず、
人は人を信頼し、真実を深く掘り下げようとしません。偶像礼拝ですね。
まさに独立性が無く、依存症なんです・・・・・!!
結果として、(私のように:笑)真理でないものを取り入れようとすると
本当に憐れで貧しく心虚しい人間や
大きなトラブルを抱えている人が、お酒をやめた最初の数年は良くても
あとから思いっきり道に迷う人間が発生します。思いっきり迷います。迷いました!!
そして、迷っている人を残念ながら・・・・・・・・・・・・・多く見ました。
私の地元のAAはまだ、そこに目が行きません。
「自分達で考えた平安の地」を作成するのに忙しいからです。
私は、真理でないものを真理にしようとし、
当てはまらない自分を責め続け、抜けない迷路に入り、非合理的な努力し、
消化できない不遇を抱え、超えられない現実の高い壁に嘆くように益々なっていったのです。
その後教会に泣いて転がり、真理を得、自分が自由になっていったときに
自助グループに言って、「ヤッパリ今の状態は真理ではないよ」
と必死で暴れても、熱くなる事で除外されてしまう事が多くありました。
ンなこというと、私の問題点をことさらに取り立てられたりしてね。
そして、その中に静かにおさまり、自分達の心が乱れないように事を進めている人間は、
どういう特徴なのか調べると、
神(AAではハイヤーパワーと言う)を信じ、満たされているから出来ると言い切りながら
後ろ盾には、金銭の援助、異性関係への依存、家族の援助、等
この世のものにすっかり支えられているのが事実でした。
この事実は今もかわらず、そしてそれはビギナーの目にそれは映らず、
私自身は非常に歯がゆくもどかしい訳です。とにかく祈るしかありません。
私が出来るのは、この憐れな状態の地元の自助グループをただ
神様の考えの方向へ、神様が持っていってくださるように、
真理の厳しさと愛の深さを追究しないものには、
それ相応の報いで彼らをあなたの方法で教えて下さいと
祈るしかないのです。
祈り、これが最善なんですけどね!!
私はこの事実を、自分自信の経験と、自分が沢山のAAメンバーと出会った事と
出会う為に必死で出かけた事で・・・・・・・・・・・・・・・・確信しました。
だからこそ最近は、
「AAのメンバー以前に私は人間であり、クリスチャンである。AAはおかしい」
とハッキリ断言できる強い信仰と、その信仰により足元が固まり
よい人生を展開している人に少しずつ会うことが出来るようになったのですが
ここに病院から紹介されて、もし私のように本当に真理に飢えている人が
この人間的な思惑の中で運営されている団体に
半ば脅しをかけられて、強制的に送り込まれる事を思うと
不憫でならないのです。そして、私が責任を果たしていないような気持ちになるのです。
その申し訳なさと責任間がいったり来たりしているので
”自助グループで悩む人へ”と言うジャンルを立ち上げています。
このAAの特徴は、「スポンサーがそういった」と言う、
”スポンサーと言う人間に対する信仰”が大きな問題の一つです。
人が人を支えている事が非常に多いのが自助グループの特徴なのです。
ザンネンな事に、何年もこの自助グループに在籍しているにも関わらず
「スポンサーが」「メンバーが」「仲間が」「ミーティングが」
私を救ったと断言する長いメンバーがなんと多い事か。
そして、いつまでも依存しあいながら生活をしているメンバーの
なんと多い事か。
著書は読み尽くす、でも、神は都合のいいところしか登場しない
この方法を選択している人間が”謙虚”か?
これがAAの目的と、著者は書いていたのか?
出版された図書には ”神を伝える事が目的”
と書いてあるにもかかわらず、この文章に目を止め、
外側からの意見に耳を傾けるものが何人もいないのです。
言葉の端はしにこの神を利用し、何かのエキス程度にしかまだ
それを利用できない、信仰の幼稚園生である事に、何故気づかないのでしょうか。
その、真理に到達できない甘さ・・・・つまり
「世の中のもので支えている生活」が、
本当に
神にしか救えない憐れな人間に迷いと苦しみを与えていると言う
大きな問題があるのに。
平安で居る為に必要なのは、真の神の知識しかないのです。
そうすれば、荒波の意味もわかる、強く論じ合ったり
長く祈り続けたりする事の意味と必要性がわかる。
アルコホーリクス・アノニマスと言う本がどうして完成したのかもわかるようになる。
神の考えがもし反映している場所と集まりであれば
それを謙虚に学び続ける姿勢がある場所と集まりであれば
貧しくひどい、人も毛嫌いするような環境・状態・状況の人が
ひっくり返ったような人生に成っていく事が見えるはずで、そういう人たちが
リーダーシップを取っていくように変化していく・・・・はずなのです。
でも、いまのAAにそれはないのですよ。少なくとも、地元のAAには。
いつまでも
「お酒がやめられた実績と、辞めていく人数」にあぐらをかいて
こぼれおち、苦しむ人たちに、またどんよりと悩む人間に
真実の道を与える事が出来ていないとしか思えない。
このアルコホーリクス・アノニマスと言う団体から出版されている図書のなかに
12&12Steps と言うのがあります。
以下は、その中の一文ですが
「私達のほとんどは、良い性格が望ましいと思っていた。
だが、それは自己満足の中で生きていくのに、良い性格が必要だったからだ。
私達が誠実さやまじめさを適当に示していたのは、
実は自分が本当に欲しいものを手に入れるのに有利な立場に立つためだった。」
あなたは、本当に謙遜について語るなら
自分が本当に欲しいもの・・・・都合の良い平安・・・・を手に入れるのに有利な立場に立つためではなく、
本当の
「神様の意思」を学ぶ事が必要ではないですか。
それを知る人から、学んでいく事ではないですか。
貧しい人から学びなさい。
憐れな人間から学びなさい。
失った人間から学びなさい。
世の中のものに満たされていながら真理を知っていると語るのは誰ですか。
このアルコホーリクス・アノニマスと言う本を用い
福音を述べ伝えたビル・Wは素晴しいクリスチャンでした。
でも、今日、彼が何を伝えたいか知るのではなく
あいも変わらず、彼が賞賛されている事を彼は悲しむだろうなと
私は思います。